一度、全ての事象が「ゲシュタルト崩壊」した経験を経たことによって、人の認識の仕方について、よくよく考察できるようになりました。
「人は、物事に関して、無意識に選択を行い、見えるものと見えないものを分けている」という事に気づいたのです。
更に、「人は、物事に関して、無意識に構造的な論理を当てはめ、理解できるものとして解釈を行った上で、見ている」という事にも気づいたのです。
なので、私が「ゲシュタルト崩壊」しているときは、この「無意識に選択を行う」ことと「無意識に構造的な論理を当てはめる」ことが出来なくなり、「全ての事象が見えてしまい」更に「論理の破綻した無秩序な裸そのもの」が見えてしまっていたのです。日常生活を行う上で、「全ての事象が見えてしまい、論理の破綻した無秩序な裸そのものが見えてしまう」と、全く不便なものになります。
例えば、「電車に乗る」という行為一つを取っても、これまでであれば、「乗客」は「雑音」であり、「周辺にいる乗客」のみ「視界に入る(気にすべき)対象物」だったのが、選択を出来ないことで、「全ての乗客」が「視界に入る(気にすべき)対象物」になってしまうのです。これによって、「周辺にいる乗客」と調和すること(適度な距離感を保つ等)ができなくなり、「周辺にいる乗客」との距離感が分からなくなり、簡単にぶつかったりしてしまいます。
また、正常の時であれば、電車でうつらうつら寝ていても、降りる駅の名前がアナウンスされると、自然と脳が反応(選択)して、聞くことができ、バッと起きて降りることができます。これも「ゲシュタルト崩壊」すると、出来ませんでした。
ただ、この経験があったお陰で現在では、「今自分は無意識にこう見たいと思って、これを選択して見ているのだな」と冷静に分析できるようになりました。
「デザイン」においても「無意識に構造的な論理を当てはめ、理解できるものとして解釈を行っている」と感じます。
例えば、
1. || || ||
2. AAA11111AAA11111AAA
3. 〕〔 〕〔 〕〔 〕〔 〕〔
1であれば、「||」でワンセットと勝手に脳が論理的に解釈しています。
2であれば、「AAA」と「11111」でそれぞれワンセットと解釈しています。
3であれば、「〔 〕」でワンセットと捉えていると思います。
最近は、こうした「ゲシュタルト」によって理解しようとする脳を逆手に取って、「伝え方」について日々研究しています。「伝え方」の中に、当然「デザイン」もありますし、「資料の作り方」にも応用できます
「人の物事を認識するプロセスが分かる」→「人が理解しやすい伝え方が分かる」→「伝え方が分かればマーケティングが出来る」という3段方式にて、最近はそうした観点でマーケティングについて考えています。